【出身地・師系】江戸(東京都)/井上金峨
【略歴・作風など】 14歳の頃、多紀元孝が開いた医学塾にて井上金峨に折衷学を学びその後乾々堂、赤坂山王、育英堂(群楽堂)などの家塾を開き名声を得ていたが、1790年の寛政の改革により幕府の正学が朱子学に統一され折衷学を基本とする鵬斎の塾は急激に人気を失い97年に閉塾。 晩年は好きなことをして人生を横臥しようという考えに変わり酒井抱一、谷文晁などとも旅行に出かけたり、書家の良寛などとも親交を持つ。
〔印 名〕 「長興之記」 「長興私印」 「鵬斎」 「鵬斎?人」 「太平醉民」(「太平酔民」) 「下界缶仙人」 「叡夫北塾」 「長梓」 「天詮間人」 「善身」 「醒烓」 など
〔市場評価〕☆〔美年鑑評価〕70万
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